2012年10月15日月曜日

佐々木小次郎の遺髪墓

 佐々木小次郎と言えば、巌流島で宮本武蔵と決闘して死亡したとされていますが、その後どうなったかは資料がなく、謎に包まれています。
 墓も全国に何カ所か伝説的に残っているようですが、その真偽は不明です。でも、巌流島が下関市ですから、やはり「山口県内のものが最も信憑性が高い」・・と信じたいです。
 と言うわけで、昔から「佐々木小次郎の遺髪の墓」として今に伝わる阿武町福賀を訪ねてきました。
 そこは、国道315号を阿東から須佐方面に進み、阿武町に入って程なく、道路左脇に「佐々木小次郎の墓」と言う案内板が目に入ります。
 更に次の案内板に従って車で1~2分も進み、空き地に駐車して徒歩で200メートル位小径を進んだ森林の中にありました。
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 山の中の小径ですが草刈り等の手入れがよくされ、参拝者もけっこうあるように感じました。阿武町のホームページに詳しく説明されてましたので以下これを引用します。
 「阿武町大字福田下、小字を小沢津といい、その山あいを寺ヶ浴と称します。ここは、慶長年間あるいはそれ以前から真言宗・正法寺という古寺がありました。
 巌流島の決闘(慶長17年(1612年)4月13日)で敗れた佐々木小次郎の妻ユキはキリシタンの信者でした。当時懐妊中のユキは小次郎の遺髪を抱き、折柄厳しいキリスト教の禁令により多くの信者とともに山陰の地に安全な居所を求めました。
 ユキは、この地の正法寺に身を寄せ剃髪して尼となり、夫・小次郎の冥福を祈り菩提を弔うために墓を建て、その墓のすぐ下のお堂というか庵で一生を終えたといわれています。この庵は正法寺が太用寺に移った跡地に、ユキ尼が小さい庵を建てたとも言われています。 我が子に対する因果応報の絆を断ち切るために、小次郎の名を「古志らう」と変えて墓に記したとの言い伝えです。 小次郎の墓と並んで佐々木姓の墓が多くあり、今も佐々木姓を名のる家が地区内に数軒有り、末裔かとも言われています。 小次郎の墓の上の段には六面石 一基があり、妻ユキが信じていたバテレン墓と思われます。その隣りには粟屋元吉公の墓がありましたが、昭和53年に太用寺の境内に移されています。











阿武町のホームページ
http://www.town.abu.lg.jp/kojiro/index.html


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